ワー

7/24、25

雑記

京都の夜

久々に京都に行き、大学時代の友達と会った。風貌や境遇は変わっても、基本的なスタンスはまったく変わっていないようだった。でも、ぼくも自分では変わっているつもりだったのに「変わらんな」と言われたので、何かしらデカいイベントでもない限り変わらないように見えてしまうものなのかもしれない。
先斗町で軽く飲み、2軒目でも、と思ったところで時短営業の壁にぶち当たる。緊急事態宣言もまん延防止云々も出ていないものの、今はどうやらほとんどの店が21時までには閉まってしまうらしい。とはいえその時点で20時、まだギリギリ1時間は飲める、ということで学生が多いバーへ。20:30ラストオーダーですがよろしいですか……と聞かれることもなく席へ案内され、適当に飲んでいたらあっという間に21時。ああ、そろそろ閉店かな、と思いきや普通にどんどん客が入ってくる。注文も普通に通る。あれ? 結局、22時になっても店が閉まることはなかった。時短営業とは店頭の注意書きだけで、知っているひとは普通に営業していることを知っていたのだった。堂々と深夜営業している店は上野なんかでもいくらもあるが、こういう形はなんだかアングラっぽくてカッコいいなと思った。
友達と別れ一人宿に帰る路上で、どうやら酔っているらしい3人組とすれ違った。何やら興奮気味に目を見開いており、何か先程起きた衝撃的な出来事について話し合っているようだ。すれ違いざまに、こういう会話が聞こえてくる。「エグ! ホンマにいるやん! え、アラビックヤマトって実在すんの?」思わず辺りを見回したが、アラビックヤマトらしい人影は確認できなかった。アラビックヤマトさんは実在したんだろうか? めちゃくちゃ気になる。

いわゆる京都

京都で大学生活を送った人間は、褒めるにせよ貶すにせよ京都に一家言持っている人が多い気がする。ご多分に漏れず、ぼくもそういうタイプである。
これはどうしてかというと、京都の凝集性が強く作用している気がする。県外の人が「京都」というときたいていは京都市内の一部区域を指しているが、実際京都で暮らしているとその区域以外に用事ができることはあんまりないのだ。ほとんどの生活が大きなひとつの区域で回り続ける。それが京都という広い括りへのレペゼン感を高めているように思う。東京の学生の場合は「高田馬場あたり」「三田あたり」とごく狭いひと駅あたりがホームタウンになるが、京都の場合だいたい洛中から自分の住処まで恣意的に引っ張った曖昧な「京都」の領域がレペゼンの対象になる気がする。京都近辺にはいくつかの大学があるが、その主張する「京都」の領域は大部分がかぶっている。
こういうレペゼン感が発生するのは、公共交通機関の不足も重要な要素だ。京都には、東京のような「どの駅が最寄り」という概念があまりない。駅がほぼないからだ。そのため学生は基本的に自転車で移動する羽目になり、それも区切りのない「一つの京都」感を高めている気がする。
とはいえ、これはあくまで京都市内の一部区域で学生生活を送った余所者の体感である、ということは強調しておきたい。実家が京都市内の一部区域の人はまた違ったレペゼン意識を持っているのだろうし、衣笠や京田辺で過ごした人はまた違った体感を持っているのだろう。我々はあくまで京都の一端を齧っただけの消費者だ。それでも、胸を張って「俺京都のこと好き(嫌い)なんですよ~」と言っていきたい。

よかったもの

youngwinona.bandcamp.com

dorachan.tameshiyo.me

オバケのQ太郎』の20年後を描いた読み切り「劇画・オバQ」が公開されていた。

佐藤究『テスカトリポカ』

読み終わった。いや~めちゃくちゃおもしろかった。金と暴力と信仰の一大叙事詩。間違いなく傑作。明確な目的を持って巨悪を築いていく流れは池井戸潤的エンタメのような熱さすらあり、罪があったりなかったりする人間がバカスカ無残に死んでいるのに粘ついた嫌らしさはあんまりない。個々のキャラクターが持つエピソードがいずれもブッ飛んでおり、キャラ造形という要素自体が持つ力に驚かされる。こんなものが書ける同作者の過去作も読んでみたい。